高すぎる物価と高すぎる税金。絶望の中に生きるトルコの人々を繋ぎ止めているのは、制度ではなく『身近な人への愛』と『文化的な優しさ』である
こんにちは!スタッフのシュウです。
第1回目のブログに続き、今回も買い付け中に経験し、感じたことを書こうかと思うのですが、今回は少し視点を変えて、今のトルコの「リアルな生活」について書いてみたいと思います。
前回も述べましたが、現在、私はドイツを拠点に生活をしているので、今回のトルコ滞在中は常に「日本・ドイツ・トルコ」という3つの国の経済感覚を頭の中で比較しながら歩くことになりました。
ドイツではエネルギー価格の高騰による高物価が続いており、日本でも長引く円安や物価高騰が生活を圧迫しています。しかし、トルコで目の当たりにした経済状況は、それらの国とは次元が異なるものでした。数十%という驚異的なインフレが続き、昨日の価格が今日も同じとは限らない世界です。
生活用品の価格だけを切り取れば、ドイツよりは安く、日本と比べれば「さほど変わらないか、やや安い程度」という印象を受ける場面もありました。
しかし、その感覚は覆されました。
買い付けで兄弟のように仲良くなった現地の友人とショッピングモールを訪れた時のことです。モールの中にあった家電量販店で新作iPhoneの値段を目にした瞬間、思わず自分の目を疑いました。
ヨーロッパや日本の相場を遥かに超える、驚くような高値がつけられていたのです。その額はトルコ人の平均月収の何倍も高くありました。
理由を聞くと、トルコでは高級嗜好品や海外製品に対して、通常の付加価値税(KDV)だけでなく、非常に高い関税や「特別消費税(ÖTV)」が重く課されているとのことでした。
数字上だけでなく街の空気も過酷さを増すトルコの現状。テレビには映らない、そこで生きる人々の悲痛な本音と、それとは裏腹に失われない温かさについて、滞在中の忘れられない出会いと共に紐解いていきます。
滞在中のある日のこと、私は買い付けで少し遠くの街へ訪問し夜にホテルへと戻りました。朝から何も食べていなかった私は空腹で倒れてしまいそうだったので、ホテルの1番近くのレストランへ入ることにしました。
中にいたのはどこか疲れた目をした中年男性のオーナーでした。不思議そうに私の顔を見つめながら席へと案内してくれ、注文をしました。
食事をした後、まだ不思議そうに私を見つめる彼は何か話をしたそうにしていたのですが、お互いの言葉がわからないし遅かったので、「明日も行きます。」と翻訳アプリを使って説明し、その日は店を後にしました。
そして次の日の晩、約束通り彼の店を訪ねました。この日はお互いに翻訳アプリを使って自分の言ったことを見せ合いながら話すことになりました。
「どこから来たんだ?」「なんでこの街に来たんだ?」「日本のこと、ドイツのことを教えてくれ」
そんな何気ない雑談から始まった会話は、彼がふと漏らした一言から、一気にトルコの重苦しい現実の報せに変わりました。
「この国には、もう夢も希望もないんだ」
アプリの無機質なフォントで表示されたその言葉に、息をのんだのを覚えています。
彼が語ってくれた現実は、想像以上に悲痛なものでした。「毎日、毎週のように物価は上がっていく。なのに、自分の店に入ってくる収入はまったく増えない。家賃も仕入れ値も上がり続けて、店を維持するだけで精一杯だ。この国の若者も、大人も、みんな未来に絶望している」
そして、次の画面越しの言葉が私の胸を深く締め付けました。
「自分には幼い娘が2人いる。彼女たちがいなかったら、自分はとっくに死んでいるよ。あの子たちの笑顔を見るためだけに、毎日こうして店を開けているんだ」
長引くハイパーインフレは、単に数字上の経済指標を乱しているだけではありません。真面目に働き、家族を愛して慎ましく生きようとする人の「生きる気力」そのものを、確実に削り取っていたのです。
この夜の出来事は、単なる悲しい思い出では終わりませんでした。
絶望を静かに吐露し、深いため息をついたあと、彼は何か思い立ったかのようにキッチンへと行き、私が注文した料理とは別の料理を作ってくれたのです。
「これも食べていきなさい。お代はいらないから」
このレストランのオーナーとの出会いは、私に「本当の社会のセーフティネットとは何か」を深く考させました。
日本、ドイツ、そしてトルコ。それぞれの国で人々が不況や生活の困窮に直面したとき、その乗り越え方(=社会的な安全網)には驚くほどの違いがあります。
ドイツは、強固な制度と社会保障の国です。高物価やエネルギー危機といった困難が訪れても、人々は法律や手当て、社会的なシステム(あるいは個人の権利や合理的な計画)によって守られ、解決しようとします。しかしその反面、ルールが厳格であり、制度の枠から外れた個人は孤立しやすい側面もあります。
一方の日本はどうでしょうか。長引く停滞感の中で物価が上がり始め、多くの人々が選択しているのは「静かな自衛」です。誰かに頼ることをためらい、自己責任の意識から一人で節約に励み、将来の不安に耐え忍ぶ。制度のサポートはありつつも、心の面では「個人の耐える力」に依存している印象を受けます。
それに対して、トルコはどうでしょう。制度的な保障や経済の安定という点で見れば、いまのトルコは間違いなく過酷な状況に置かれています。何十%にも達するインフレや高額な税率に苦しみ、社会システムが一人ひとりの生活を十分に支え切れているとは言えません。しかし、彼らには別の強力なセーフティネットが存在します。それが「家族、仲間、そして地域社会という血の通った人間関係」です。トルコでは、誰かが困っていれば家族や親戚、近所の人間が自然と助け合います。「お金がないならうちで食べていけ」「仕事がないなら知り合いを紹介する」という相互扶助が、日常の当たり前として機能しているのです。深夜のレストランで出会ったオーナーが、自分自身も絶望の淵に立ちながら見知らぬ私にお代を取らず料理を振る舞ってくれた理由もここにあります。彼らにとって、困っている人や遠くからの訪問者を助けることは、損得勘定の計算ではなく、幼い頃から身についた「生きるための文化」であり「尊厳」そのものなのです。「申し訳ない、払うよ」と伝えても、彼は頑なに首を振り、「いいんだ。遠いところから来てくれたんだから、お腹いっぱい食べてほしい」と笑いました。
自分自身の生活すら困窮し、未来に絶望しているはずの人間が、目の前の見知らぬ外国人に対して、損得感情を抜きにしたもてなしの心と思いやりを注いでくれる。
日本やドイツであれば、生活が困窮し心の余裕がなくなれば、人々は自衛のために他者との関わりを断ち、自分だけの殻に閉じこもってしまうことが多いかもしれません。制度や社会保障が整っているはずの国でさえ、経済的な不安は人の心を冷たく冷やしていきます。
しかし、トルコの街角で出会った彼は違いました。明日が見えないほどの絶望の淵に立ちながらも、その手から人間としての温かさや他者への愛情が失われることはなかったのです。
このレストランのテーブル越しに交わした温かい料理と冷たい真実は、今回の買い付け旅の中で深く私の心に刻まれることになりました。
今回のトルコ滞在は、単に買い付けの成果を得るだけでなく、目に見えない多くの問いを私に投げかけてくれました。
ショッピングモールで見たあまりにも高額なiPhone、そして深夜のインビスで翻訳アプリ越しに触れた店主の悲痛な本音。数字やデータだけでは決して測ることのできないトルコの厳しい現状は、今も現地で暮らす人々の肩に重くのしかかっています。
それでも、私がこの国を訪れ深く惹きつけられるのは、彼らがどんなに過酷な状況にあっても失わない「たくましさ」と「人に対する底なしの優しさ」です。
バイヤーとして私たちが現地から持ち帰るのは、精緻に織り上げられた美しい絨毯や魅力的な手仕事の品々だけではありません。それらを手渡してくれる商人や職人、そして街角で出会った人々の温かいぬくもりや生きていくエネルギーそのものです。
持ち帰った一枚の絨毯を広げるとき、そこにはトルコの太陽の光やエキゾチックな街の空気とともに、過酷な日々の中でも前を向いて生きる人々の情熱が宿っていることを感じます。
制度やルール、将来への不安に縛られ、つい人と人との距離が離れがちになる現代社会。そんな先進国の日常に戻った今だからこそ、あの深夜の小さな店で受け取った温かい一皿の記憶と、人々の温もりを大切に胸に刻んでおきたいと思います。
買い付けという仕事を通して出会えたすべての縁に感謝を込めて。