「近すぎるくらいが、ちょうどいい。」トルコ社会の距離感と『良い縁』の連鎖」 初めての買い付けを終えて
はじめまして、こんにちは!
スタッフのシュウです。 現在はドイツで暮らしていて、このたびfloの買い付け担当としてトルコへ行ってきました。
かなり内容の充実した買い付け旅行だったので、どんな旅行だったかをつらつらと思い返しながら書くのもいいかと思うのですが、今回は普段の生活や買い付け期間中に感じたひとつのことをテーマにして書いてみたいと思います。
今回のテーマは『距離感』です。
物理的な距離感というよりも心の距離感とか親密さについて。
異国で暮らしていると、ふとした瞬間にこのことについて考えることがあります。
まず、日本で育った私にとって、人との距離感とは「相手を気遣うためのもの」でした。ウチとソトを分け、言葉の行間を察し合いながら、お互いに踏み込みすぎない一定の心理的距離を保つ。それが日本らしい優しさの形です。
一方、今住んでいるドイツでは、挨拶のハグやスキンシップなど日本にいるときと比べると物理的に距離が近くなることもありますし、家族という集団の中での連帯の強さも感じます。けれど根底には強い個人主義があり、「人は人、自分は自分」。他人のプライベートには踏み込まない、どこかすっきりとしたドライな快適さがあります。
「礼儀正しい距離感」の日本と、「自立した個が尊重される」ドイツ。
どちらの心地よさも知っていた私が、今回トルコの地に足を踏み入れ、出会ったのは——そのどちらとも違う、驚くほどグッと距離の近い人々の姿でした。
それは日本でいうおもてなしの精神のようにも感じましたが、毛色が少し違うというか、そこからもう1歩踏み込んでいるというか。不思議な温もりと愛おしさを感じる『距離感』でした。
今回はいくつかエピソードを交えながら、トルコで感じたその『距離感』と、そこから生まれる『良い縁』の連鎖についてお話ししたいと思います。
トルコでの買い付け期間中、私の日常は多くの人との出会いで埋め尽くされました。
初日から最終日まで、出会うトルコ人というトルコ人が、当たり前のように私を輪の中に引き入れてくれるのです。
「チャイ(紅茶)を飲んでいきなさい」 「腹は減ったか? 昼飯を一緒に食べよう」
夜に夕食に招かれ、休む間もなく「この街を案内してあげるよ!」と、とびきりのツアーガイドまで買って出てくれる始末。
会ってからまだ数分しか経っていないはずなのに、彼らの接し方はまるで「何年も会っていなかった親戚」か「昔からの親友」のそれでした。
また印象的だった出来事があります。 買い付けの合間、街のお茶屋さんで一息ついていた時のことです。
たまたま隣の席に座った現地の人と目が合い、軽く挨拶を交わしました。するとどうでしょう。気づけば私の目の前には、彼が奢ってくれた淹れたてのチャイが置かれていたのです。
「どこから来たんだ?」「ここで何をしているんだ?」
チャイの湯気越しに会話が弾み、名前も知らなかったはずのその人と、気付けば30分以上も熱心に世間話を咲かせていました。
日本の「見知らぬ人への警戒心」や、ドイツの「他人の領域には干渉しないマナー」。そうした私が今まで当たり前だと思っていた心の防壁が、トルコの人々の前ではあっさりと解け去っていったのです。
彼らにとって、目の前の人は「他人」ではなく「まだ話していない友人」。 踏み込まれているはずなのに、不思議と図々しさは感じない。そこにあったのは、境界線など最初から存在しないかのような、包み込むような温かさでした。
そんな「距離感の近さ」が、単なる気さくさだけではなく、彼らの生き方や商いの根底にあるのだと確信した瞬間がありました。
ある絨毯屋のオーナーと、商談というよりはほとんど世間話のような時間を過ごしていた時のことです。チャイの チューリップ型のグラスを片手に、彼はふと真顔になり、私にこう語りかけてくれました。
「私はね、良い人間としか仕事をしないんだ。悪い人間とは絶対に仕事を一緒にしない」
損得勘定が優先されがちなビジネスの世界で、あまりにもストレートなその言葉に、私は思わず耳を傾けました。彼は静かに笑いながら、こう続けます。
「なぜなら、良い人が、次にまた良い人を運んできてくれるからだ」
その言葉を聞いたとき、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じました。
効率や契約書、あるいは条件の良し悪しで繋がるビジネスではなく、彼が一番大切にしていたのは「目の前の人間とどう心を通わせるか」という一点だったのです。
「良い人が、次の良い人を連れてくる」
だからこそ彼らは、初めて会った相手であっても恐れずに心をひらき、家族のように懐へと飛び込んでいくのかもしれません。自分の心の扉をあらかじめ全開にしておくことで、最高のご縁を手繰り寄せているのだと気づかされました。
日本の「思いやりのある距離」も、ドイツの「個を尊重する距離」も素敵です。 けれど、ズカズカと踏み込んできているようで、実は相手を全幅の信頼で包み込んでいるトルコの人々の距離感。
買い付けという仕事で訪れたはずの私は、絨毯という「物」以上に、彼らが紡ぎ出す「あたたかなご縁の輪」を分けてもらったような気がしたのです。
なぜ彼らは、見ず知らずの私に対してここまで心をひらき、懐に飛び込んで来てくれるのだろう?
後になって、トルコには「ミサフィール(Misafir)」という大切な言葉があるのを知りました。
トルコ語で「ゲスト(お客様)」を意味する言葉ですが、彼らにとってミサフィールとは単なる訪問者ではありません。「神様から遣わされた大切な贈り物」なのだそうです。
だからこそ、街のお茶屋さんで出会った人も、絨毯屋のオーナーも、私を「買い付けに来た外国人バイヤー」としてではなく、一人の「神様からのゲスト」として迎えてくれたのです。
チャイを振る舞うのも、家に招くのも、良い縁を信じて語りかけるのも、すべては「出会えた奇跡(ミサフィール)を全力で祝う」というトルコ社会に根付いた優しさそのものでした。
「近すぎるくらいが、ちょうどいい」
日本の慎み深い優しさも、ドイツの自立した心地よさも知る私にとって、トルコで過ごした日々は“人との繋がり方”の概念をやさしく覆してくれるものでした。
踏み込みすぎるほど距離が近いからこそ、そこに打算のない温もりや「良い縁」の連鎖が生まれる。
買い付けの旅を終えた今、私たちの手元には美しいトルコ絨毯があります。 でも本当に持ち帰ってきたのは、絨毯の織り目の中にぎゅっと詰まった、オーナーや街の人々の温かな情熱と「ミサフィール」の心そのものなのかもしれません。
良い人が、次の良い人を連れてくる。
トルコで受け取ったこの素晴らしいご縁のバトンを、今度は私たちが、日本の皆さまへとお届けできたらと思っています。